最近の競馬ナンデの議論から考えた取りとめのないいくつかのこと

最近テレビは見ていないんですよ。地上波放送終了後、我が家にはテレビがないもので(笑)。

当分テレビは見ないことにしました。そう決断したきっかけは、東日本大震災以降の報道姿勢、とりわけ福島原発事故報道に疑問を感じたから。

テレビというのは、「世論誘導装置」、「国民洗脳装置」だとつくづく思い知らされた。そういうものから「逃走」したかった。影響を受けたくないと思ったわけです。

古館や田原やみのの扇情的な言動を目にしないで済むだけ、清々しています。

 

というわけで、菊花賞も後からNetで見ました。もちろん結果を知った上でですから、確認の作業以上のものではないわけで、過去のレースと比べて感動の質量を比較することはできません。

まぁ、「感動」という言葉が抽象的でなかなか難しい言葉で、実感的な言葉に置き換えると、「ゾクゾクと鳥肌が立つよう」な感覚から「おっ、これはすごいぞ」と感じる程度のものまでと捉えましょうか。

最近「おっ、すごいぞ」と感じたレースは、例のハットトリックの産駒、ダヒルシムの5連勝目、仏GⅠジャンリュックラガルデール賞。

あのレースで、デットーリ騎乗のダヒルシムは、内らち沿い、ギリギリ1頭分のスペースを通って、最後方から差し切ります。

常識的に考えて、他の騎手の一人でも、コースを遮ればあの勝利は無かった。しかも、日本などよりははるかにタフだといわれているフランスの競馬でですよ。普通はあり得ないことです。でもそれが現実として実現していて、観る者に感動を与えた。

 

私自身は、易々と内からの差し切りを許した騎手を非難しようとも思わないですし、仮に前を遮る騎手がいて(その可能性の方がはるかに高い)、デットリーが手綱を曳くようなことがあっても、それはそれで仕方のないことだと考えると思います。

 

つまり、競馬というのは(競馬に限った事でもないですが)、偶然性に支配されているスポーツでありギャンブルであるということでしょうかね。

 

その部分は、人知の及ばざる領域であって、安易に、そこに関わった人間の問題に矮小化できないと感じています。

 

ある事例。

誰も書かないし話さないので、ファンには知られていませんが、テンポイントの日経新春杯での事故について。

少なくともテンポイントの関係者は、原因はエリモジョージの動きに有ったと認識していました。今となってはソースも不明ですから、具体的な発言を紹介することはできませんが、吉田牧場、吉田重雄氏が、そういう指摘をしています。

あの事故の直前、エリモジョージに、寄れたのか、進路を塞ごうとしたのか、ぶつけに来たのか、不自然な動きがあった。その動きにテンポイントはバランスを崩し、あの事故につながったと。現在では、66.5Kgの重ハンデが原因のように語られていますが、ハンデは副次的なものであって、原因が別のところにあるという指摘でした。

 

もちろん、この事故も私は偶然性が支配する領域の問題であって、個人の問題に置き換えることをすべきではないと感じていますが、そうはいっても、一つの判断が、重大な事故を惹き起し、場合によっては歴史を変えるような事態を招きかねないわけですから(もしテンポイントが生きていたら、日本の競馬はどうなっていたのか。少なくとも子息の吉田直哉氏がアメリカで牧場を経営することにはなっていなかっただろうとか妄想することもあります。)、サラリーマン騎手であれ、ギャンブル騎手であれ、事故を未然に防ぐために、最大の注意を払う義務を有していることは言うまでもないことだと考えています。


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